就学前の親子が仲良よく
毎日コミュケーションが
少しでも取れるように絵本の原稿を
昨年はシリーズで10作を創作した。
小学生1、2年生の年齢が、
いじめの増加が進んでいることを知り、
創作した原稿を幼児向けから
小学校低学年に書き直した方が良いのではと
昨年の10月ぐらいから、強く思うようになった。
そう思って、いじめのない学校生活の実現を目指しての
シンポジュウムに参加して出会った「倉橋惣三先生」
先生の「育ての心」の著書を知り、
子どもを育む親と教育者の大切な原点の教えが
シンプルなのに、深い真理に感動した。
そんな先生の「育ての心」の一部をご紹介する。
フレーベル館 「育ての心」 倉橋惣三先生(幼児教育の基礎を築いた教育者)
序
自ら育つものを育たせようとする心。
それが育ての心である。
世の中にこんな楽しい心があろうか。
それは明るい世界である。
温かい世界である。
育つものと育てるものとが、
互いの結びつきに於て相楽しんでいる心である。
育ての心。
そこには何の強要もない。
無理もない。
育つものの偉(おお)きな力を信頼し、
敬重して、その発達の途に遵うて発達を遂げしめようとする。
役目でもなく、義務でもなく、誰の心にも動く真情である。
しかも、この真情が最も深く動くのは親である。
次いで幼き子等の教育者である。
そこには抱く我が子の成育がある。
日々に相触るる子等の生活がある。
欺うも自ら育とうとするものを前にして、
育てずしてはいられなくなる心、
それが親と教育者の最も貴い育ての心である。
それにしても、育ての心は相手を育てるばかりではない。
それによって自分も育てられてゆくのである。
我が子を育てて自ら育つ親、
子等の心を育てて自らの心も育つ教育者。z
育ての心は子どものためばかりではない。
親と教育者とを育てる心である。
子どもたちの中にいて
<ひきつけられて>
子どもがいたずらをしている。
その一生懸命さに引きつけられて、
止めるのを忘れている人。
気がついて止めてみたが、またすぐに始めた。
そんなに面白いのか、
なるほど、子どもとしてはさぞ面白かろうと、
識らず識らず引きつけられて、ほほえみながら、
叱るのをも忘れている人。
実際的には直ぐに止めなければ困る。
教育的には素より叱らなければためにならぬ。
しかも、それよりも先ず、取り敢えず、
子どもの今、その今の心もちに引きつけられる人である。
それだけでは教育になるまい。
しかし、教育の前に、
先ず子どもに引きつけられてこそ、
子どもへ即(つ)くというものである
子どもにとってうれしい人とは、
こういう先生をいうのであろう。
側から見ていてもうれしい光景である。
今の世の中は、「あたたかなまなざし」、「寛容さ」、
そのようなものがだんだんと少なくなり、
子どもたちから「子どもらしさ」を奪い、
まるで「小さな大人」を大量生産しているような気さえしてきます。
私が小学校の低学年だったころ、
当時は長野に住んでいましたが、
学校でドッジボールが流行った時期があって、
休み時間になると、
みんなで体育館に行ってドッジボールをしていました。
担任の先生も一緒に交じってやっていたのですが、
盛り上がってくると先生は次の授業を潰して、
そのままドッジボールをやり続けると
いうことが度々ありました。
そんな話を娘たちにしたところ、
「(今では)絶対ありえん!」と口を揃えて言っていました。
ずいぶん前のことなので、
私の記憶も定かではありませんが、
ドッジボールで授業が潰れたからといって、
勉強が遅れて困ったなんてことは、
おそらくなかったでしょうし、
反対に「ああ楽しかった~」と満足して教室に入り、
その後の授業には、
より集中して取り組めたのではないかと思います。
教育者には、知識や技術も必要ですが、
やっぱり子どもたちから好かれる、
尊敬される、喜ばれるといったことが
一番重要なんじゃないだろうかと思います。
子どもは「あんなふうになりたい!」と憧れを持てば、
言われなくても一生懸命努力しますし、
大好きな人が言うことや教えてくれることは、
しっかりと心に刻んでいくものだと思います。
私たち子どもにかかわる大人は、
何より「子どもにとってうれしい人」でありたいと思います